成道会とは?

成道会とは、お釈迦様が悟りを開いた事を記念して、法要を行う事です。

お釈迦様

成道会

この成道会とは、お釈迦様が悟りを開かれた、いわゆる成道を記念して、12月8日に行う法要であります。

日本独自の伝承では、お釈迦様は12月の別名の臘月に成道されたので、この成道会を臘八会(ろうはちえ)とも呼ばれております。

お釈迦様のお誕生を祝う花祭り(灌仏会4月8日)やご命日に勤める涅槃会(2月15日)と並び、釈尊三大法要の一つに数えられております。

浄土宗では、お釈迦様が修められた苦行に思いをいたし、お念仏の教えを伝えてくださった事、仏教を開かれた事に対する感謝の意を込めて、お釈迦様と阿弥陀様の名前、それぞれ南無釈迦牟尼仏と南無阿弥陀仏を唱えて勤めます。

お釈迦様はインドの王子様であった?

お釈迦様は今から2500年以上の昔、インド北部(ネパールの国境付近)、ヒマラヤの麓にあったとされるシャカ国の王、シュッドーダナ(浄飯王)とその妃マーヤー(摩耶夫人)との間に生まれました。

お釈迦様の本名は、古代インドの言葉でゴータマ・シッダールタと言い、ゴータマが名字で「最上の牛を持つ者」を意味しており、一族の王を表しており、シッダールタが名前で「目的を達成した人」という意味があります。

そのお釈迦様を身ごもった摩耶夫人が、出産の為に里帰りの途中で、ルンビニーの花園で身体を休めている時、アショーカ樹の綺麗な花に右手を触れた際に、急に産気づいて摩耶夫人の右脇からお釈迦様が生まれました。

その後お釈迦様は、生まれて直ぐに立ち上がって、七歩歩いて右手を上に、左手を下に向けて天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)=私には天にも地にもただ一人尊いと言われました。

その時、天に9頭の龍が現れて、お釈迦様の頭上に清らかな水を降り注いで、爽やかな風が吹きわたったと言われております。

ところが、母である摩耶夫人はお釈迦様を産んでから7日後に亡くなってしまい、夫人の妹である摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)が王妃となりお釈迦様を育てました。

お釈迦様は、将来の王様となる為あらゆる教育を受けて、季節によってそれぞれに適した家を所有するなど、恵まれた環境に育ちました。

お釈迦様は何に悩んでいたのか?

お釈迦様が12歳の春に、農作物の豊作を祈るお祭りに参加した時の出来事です。

すると、たまたま土の中から小さな虫が出てきて、小鳥がどこかからやってきてその虫を食べてしまい、今度はその小鳥を大きな鳥が食べてしまったのです。

次々と生命が奪われていく様子を見たお釈迦様は、この世に生きる事にどのような意味があるのか、という悲しい気持ちになられたと言われております。

それからは、お釈迦様は元気がなくなり日々思い悩んでおりました。

それを見ていたお釈迦様の父親は、跡取り息子に出家されては困ると思い、隣りの国の王の娘である耶輸陀羅(やしゅだら)を花嫁として迎えました。

家庭を持ち子供が生まれたら、お釈迦様の悩みも無くなるだろうと考えました。

結婚して幸せな生活をしていたお釈迦様ですが、どうしても悩みを解消する事が出来ずにいました。

それを心配した父は、気晴らしの為に城外に出て、違う世界を見るのはどうかと勧めました。

お釈迦様は、家臣を連れて東の門から城外へと出掛けて、行く手に年老いた老人が居て、家臣にあれは何者だと尋ねたところ、家臣は「老人で、人は誰でも年老いて衰えるもの」だと聞かされました。

次の日、お釈迦様は南の門から城外へと出ると病人を見て、次の日には西の門から城外へと出ると死人を運ぶ行列に出会い、次の日には北の門から城外へと出たお釈迦様は、出家して修行に励んでいる一人の沙門(しゃもん)に出会いました。

この沙門の姿に、お釈迦様はすごく感動し出家の決意を固められたと言われております。

しかし、すぐには出家をする事が出来ず、当時は跡取りとなる子供がいないと出家出来ないという取り決めがあり、お釈迦様夫妻は結婚して十数年子供に恵まれませんでした。

お釈迦様はどのように出家したのか?

出家

お釈迦様が29歳の時に、妻のお腹をピッと指を指すと妻は妊娠して、ラーフラという男の子が誕生したのです。

それでも父は出家を許してはくれず、お釈迦様はそこで父に次ぎのような願いを出したと言われております。

「父上、私の4つの願いを叶えてくれるならば、この国を受け継ぎます。出来ないのなら出家を許して下さい。

1つ、私が決して老いない事。2つ、私が決して病気をしない事。3つ、私が決して死なない事。4つ、私が生きて行くうえで決して不幸にならない事。」

それでも父は、出家を許してくれるはずもなく、お城の門を全て閉じて城外へ出られないようにしてしまいました。

お釈迦様はある晩に、お城からの脱出をはかり、梵天と帝釈天という古代の神々が脱出を手伝ってくれました。

まずは梵天が、城内にいる全ての人を眠らせて、帝釈天の家来でもある四天王がお釈迦様を城外へ連れ出して、ようやく出家する事が出来ました。

跡継ぎ

お釈迦様の厳しい修行とは?

お釈迦様は出家した後、すぐに毛髪を剃ってお坊さんのスタイルにして、故郷から数百キロも離れている王舎城(おうしゃじょう)に向かいました。

王舎城のまわりは、5つの山に囲まれていて、その内の1つの霊鷲山(りょうじゅせん)には数多くの出家修行者がいました。

そこで2人の、偉大な仙人に坐禅による瞑想法を習いましたが、お釈迦様は瞑想によって達した2人の仙人の悟りに、すぐに行きついたと言われております。

それでも、お釈迦様の悩みを解決する事は出来ませんでした。

その次に向かったのは、王舎城から70キロ南西のガンジス川支流の尼連禅河(にれんぜんが)の畔にあるセーナーニ村であります。

そこでは、沢山の修行者が苦行により悟りを開こうとしていました。

その苦行と呼ばれるものは、片足で立ち続ける・息を止め続ける・体を首まで土中に埋めたままにする・太陽を見続ける・食べ物を何日も口にしないなどです。

苦行の中で、最も苦しいと言われているのが、食べ物を何日も口にしない断食修行で、通常であれば21日間が限界とされておりましたが、お釈迦様はその倍の42日間も行ったと言われております。

これには、周囲にいた修行者達は大変驚きお釈迦様を褒め称えて、そのお釈迦様を中心に6人の修行チームが出来たと言われております。

お釈迦様はどのように悟りを得たのか?

悟り

過酷な苦行を何年も続けたお釈迦様は、体はやせ細り、骨と皮だけになってしまいましたが、それでも悟りを得る事が出来なかったと言います。

そんなある日の事、農民の歌が聞こえてきて、「琵琶の弦は、きりりと張れば、ぷっつり切れる。ゆるめたら、べろんべろん」それを聞いたお釈迦様は、「苦行は、苦しみに耐える力はつくかもしれないが、悟りを得る為には無意味ではないか」と気付きました。

そして、「快楽ばかりでもいけない。苦行ばかりでもいけない。極端に偏りすぎず、程よい中道を歩むべきだ」と言う考えに至りました。

その後、お釈迦様は体を清める為に、尼連禅河に入りましたが危うく流されそうになったが、何とか岸に辿り着く事が出来ました。

木の下で、お釈迦様が休んでいると、村娘のスジャータが通りかかり、弱った体のお釈迦様に牛乳のお粥を、毎日食べさせてくれました。

スジャータのお陰で、お釈迦様は元気を取り戻し、静かなガヤーという町に移って菩提樹の下で坐禅を組みました。

そして、お釈迦様は悟りを得るまでは、決してこの坐を立たないと言う、固い決意で瞑想を続けたと言われております。

このお釈迦様の瞑想を邪魔しようと、煩悩の化身であった魔神マーラが現れます。

マーラはお釈迦様のもとに三人の娘たちを送り込んで、心を乱そうとあらゆる誘惑をしますが、それでもお釈迦様は誘惑に屈する事はありませんでした。

次にマーラは、自分の手下達に一斉に攻撃させますしたが、どんな攻撃を仕掛けてもお釈迦様に届く事はありませんでした。

最後にマーラ自身が、巨大な円盤を振りかざして向かって行きましたがこれも屈せず、ついにはマーラを撃退しました。

次々と襲い掛かる悪魔を、打ち破ったお釈迦様の心は清らかに澄みきっていて、その澄みきった心で深い瞑想にふけっていると、お釈迦様はついに悟りを開きました。

お釈迦様は仏陀となって、暫くの間悟った心理を味わい楽しんでいたと言われております。

それはお釈迦様が、出家してから6年後の35歳の12月8日の暁(あかつき)の事であります。

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